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ブログ - Words from Flying Books

TATOO YOU

 

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 『刺繍の男(Tatoo You)』、ローリング・ストーンズの1981年にリリースされたアルバムのタトゥー入りのミック・ジャガーのジャケットは、ストーンズの中では『山羊の頭のスープ』と共に、僕のお気に入りのデザインである。アートワーク以外でも、中身も良い、特に4曲目のキース・リチャーズがボーカルのLittle T&Aは最高にカッコいい。噂に聞くところでは、LIVEでは人気がないのか、トイレタイムだそうだ。(アメリカでは?)なんと、このアルバムにはジャズ界の巨人ソニー・ロリンズが参加しているという、愛すべきアルバムだ。今回紹介する一冊は、ジャケットカバー顔負けのタトゥーをした奴らがぞろぞろ出てくる。テリー・リチャードソン、リチャード・プリンス、そしてジェイムズ・フレイ。現代のアメリカン・カルチャーを代表する3人が顔を並べたユニークな一冊がここにある。しかも、3人のサインが三角形を作るレザボア・ドックス状態という代物である。
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テリー・リチャードソンと、リチャード・プリンスはよく知っているが、ジェイムズ・フレイは名前と、回想録なのか自伝的小説なのかで、物議を呼んだ作家程度の認識だったので、今回取り上げるにあたって彼のバッシングを受けた処女作『こなごなに壊れて(A Million Little Pieces)』購入し、一気に読んだ。「飛行機の後部座席に寝かされていて、自分の顔にはえぐれたような傷があり、前歯もなければ鼻も折れていた…。」こんなショッキングなシーンでいきなり始まる物語は、事実をもとにしているだけあって心に響く。大筋はジャンキー達が治療施設
で悪戦苦闘し、家族や友人、恋人の愛に目覚めるといった自己回想物の作品で、全編に老子の教えがバック・ミュージックとして聞こえる秀作だ。バロウズ以来の衝撃という触れ込みらしいが、そうは思わない。バロウズの『ジャンキー』に出てくる人物は、なんにも悪いと思ってないし、愛なんかにも目覚めない。絶対的な快感に支配されている『ジャンキー』の文体は乾いていてクールだ。やっぱり、格が違うのだろう。 

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この本に収録されている、ジェイムズ・フレイの小説のために撮影したテリー・リチャードソンの写真は、小説にも出てきそうな、どうしようもない奴らばっかりだ。スキンヘッドでタトゥー、今までマトモな職に就いたことなんか一度もないようデカイ銃を持つギャングや、薬のためなら体を即売しそうなセクシーな子持ちの女だ。そして、これに乗ってクラックや、スピードを調達(レイズ)しに行きたくなるゴテゴテしたアメ車だ。そもそも、撮影している本人が小説の登場人物なみにキャラクターが良いので、かなりイメージをシンクロ出来るのは嬉しいし、笑える。フレイの小説に出てくる、依存症者達が自分の過去を笑いのネタにして語り合う良い場面があるが、こういう話は笑劇で迎えてやるしかない。そもそも、ラジオや新聞の悩み相談やなんかは笑って聞くものなのだから。                     terry04

この本の中で、異彩を放っている写真がロサンゼルスの高速道路をモノクロームで上空から撮影した写真だ。テリーには珍しくクールな視線で淡々と撮影している感じがとてもいい。細胞分裂をし続け、増殖していく建物やハイウェイ。そのなかで蠢くウィルスのような人間達。この写真を見ていると地球からすれば、我々人類がいかにウィルスなみにいやらしく過剰に増殖し、好き勝手にやっているのが分る。それは、がん細胞と同じくストッパーが外れた暴走進行形のジャンキーみたいだ。DNA螺旋構造を擬態したハイウェイ場で起こっているいることなんか、観る位置を変えれば、良くも悪くも観察者の見方一つで変わる。地上での戯れ言は、マクロで観ればカワイイものだし、ミクロで味わえば、深刻だ。
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テリー・リチャードソン、リチャード・プリンス、ジェイムズ・フレイ、この中でなんといってもミステリアスで魅力的なのがリチャード・プリンスだろう。かつて美術評論家S.Nに、オカマのサンプリングと言わしめたこの特性の無い男の、アメリカの象徴的な表層だけをかすめ取る作品は、アメリカの大衆の欲望そのままに見える。したたかなその手口は、匿名の天才ハッカーのようだ。僕は、いまだにこの男の顔を覚えられない。しかも、この本では表紙(裏)だけという潔さ。この3人のアメリカ人が世界中のドロップ・アウトしたキッズや、セレブの財布の紐を緩めさせ、欲望を増殖させるのは愉快でたまらない。前記したキースのLlittle T&Aの”T”は”Tits”でパイオツ、”A”は”Ass”でケツだ。増殖の原因は確実にこれだ。

『Wives,Wheels ,Weapons』James Frey Terry Rchardson Richad Prince
HC 3者サイン入 JMc & Ghb Editions 2008
¥45.000

ハヤシユウジ

2012 年 5 月 12 日 | comment
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孤独を愛する人

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ギリヤーク尼ケ崎は、1930年北海道函館生まれ、邦正美に師事して現代舞踊を学び、1957年にデビューし、1968年から街頭での大道芸に転向。現在も公演を続けています。
本書は、各地で公演したときの記録がギリヤーク尼ケ崎自身の言葉で綴られており、
さまざまな場所で踊った写真が多数収められています。

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(渋谷ハチ公前)

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1968年当時の渋谷や上野の様子が生々しく浮かび上がってきます。

駅前は、広場があるといっても、交番がすぐ近くにあり、警官が見張っているだけでなく、ヤクザの人がいたり、新宿にはフーテン族と呼ばれる人たちもいたり、政党の演説が入ったりもして、最後まで踊れるか不安と緊張のなかで彼はドーランを塗り始めます。

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1957年にデビューしたものの、舞踊を教えながら食べていくという目論見が外れ、1968年当時、彼はもう38歳になっていました。
一日一日追いつめられていく中で、舞踊で生計を立てていける方法はないものかと毎日考えていたときに、子供の頃に見た、街角で芸を演じながら細工飴を売っていた親子を思い出し、街頭で踊ってみようと思い至ったそうです。

「街頭で踊るという考えが浮かんできたのは、必ずしも生活のためばかりではなかった。私自身の内面生活の危機感があった。私が秋田の大館で過ごした数年間は、自分というものをじっくり見つめることができた。また、周囲の自然の景色を眺めながら、いつも新鮮な気持ちでいられた。しかし、再度上京して夜警をしているうちに肉体的に疲れて、退職する頃はいつの間にか日々の生活に無感動になっていった。その前、掃除夫をしていた頃は、まだ心にゆとりがあった。都会の片隅を流れる小川の水音にじっと耳を澄ませば、我を忘れて大河の流れを思い、自然の懐に飛び込むように神韻縹渺とした仙境に遊ぶことができた。しかし、今は薄汚いドブ川でしかない。雲や風を友とし、道端の小さな小石の存在にも感動した私の心は、いったい何処へ行ってしまったのだろうか。そして孤独は私から逃げていった。このことは、私にとって何よりも恐ろしいことだ。」

「日が経ったが、街頭で踊ろうとする決心がつきかねていた。しかし、ある夜寝床の中でまどろみながら、死んだ肉親のことを思い出した。“私もいつかは死ぬんだなあ、それならば人間らしい本当の生き方をしてみたい。大道芸人でよいではないか。このごみごみした東京の生活から、本当の人間と人間の心のふれあいみたいなものが、街頭で踊ることによって生れてくるかもしれない。”」

「“そうだ、人がどんな目で見ようと、街頭で踊って喜捨を貰い、なんとか自活して母を楽にさせたい。私の全存在を賭けて、自分の本当の生きざまを踊るんだ。街頭で踊ることによって、自分を捨てていこう。そして生身の己の姿をじっくりと見つめていくことによって、少年の頃から心に抱いていた、遠い遠い昔から脈々と生き続けている宇宙の命にいつの日か会えるかも知れない。”そう思ったとき、私は再び生きていこうとする本当の勇気が湧いてきた。」

ギリヤーク尼ケ崎の文章は、実に鮮明で胸に迫ってきます。
純粋で繊細な精神を持ち、自身に忠実に生きなければ、魂が殺されてしまうような人だと思いました。

彼の繊細な感性はどういうところから生まれてくるのでしょうか。
前出の、
「そして孤独は私から逃げていった。このことは、私にとって何よりも恐ろしいことだ。」
という文章が印象的でした。

「秋田の大館で過ごした数年間」にさかのぼってみると、彼は1959年〜60年の頃に、大館の神社の境内で舞踊の練習をしていました。
裸同然の格好でいるために様々な事件の疑いをかけられたりしましたが、それでも、彼は全身に気力が漲っていて、このように綴っています。

「私の心境は爽やかだった。名もない野辺の雑草や小さな石、小川の流れ、その他諸々の自然の景色の中に美を感じて、終日見とれていた。また練習の帰り道、道端の地蔵さまに深い愛情を覚えて佇んでいたこともあった。それから、物が実によく見えた。野に咲く一輪の花に心ひかれてしばらく見とれていると、その花に私自身の心を感じた。また風になびく柳を見つめているうちに、いつの間にか私の体も軽くなっていった。そして、柳の糸と一体になって踊り狂い、私の心は風と共に平野を彷徨い続けた。」

踊りを通して人間的なふれあいを感じるということが、とても胸に迫ってくるのは、
彼にとって踊りが人生そのものであるということ、
そして、用意された舞台があるのとは違って、街頭で踊り喜捨だけで生活をするということが根底にあります。

見る者は、まさに彼の生きざまを目撃するのです。

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ギリヤーク尼ケ崎の言葉を通して、「生きるとは何か」ということを突きつけられます。
深い悲哀があるからこそ、小さな喜びがいかに尊く美しいものか、深く考えさせられます。

現在も街頭公演が行われているので、ぜひ一度生で体験したいものです。

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『鬼の踊り―大道芸人の記録』
ギリヤーク尼ケ崎
初版 ブロンズ社 1980年
SOLD

Uehara

2012 年 5 月 5 日 | comment
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